誰かの青年

 

 

「なぜ『あんぱん』ではなかったんでしょうか」

 

同級生の女の子が、云った。わたしは、びっくりした。

高校一年生の始めのころのことだ。わたしたちは現代国語の授業で、谷川俊太郎さんの一編の詩、『うつむく青年』を読んでいた。

 

もう十数年前のことなのではっきりと覚えてはいないのだけれど、現代国語の授業は、一コマ一時間半という時間を使って、短い短編小説やエッセイなどを一編ずつ読んでゆく、という形式をとることが、多かったような気がする。

その日もまず、黒板に書き写された詩をみなで音読した。それから一行一行、詩の言葉を追っていこう、ということになった。

「感想を云ったり、気になった表現を挙げていきましょう」。先生は云うのだけれど、手を挙げるひとはおらず、授業は弾まない。

 

感想を云うのは、恥ずかしいよなあ。それに、詩っていうものはとくになにがなんだか、よく判らないんだもの。授業で読めるように、なるものなのかなあ。

そのときわたしは、なんとなく違和感を持ちつつ、ぼんやりとしていた。

ぼんやりと、黒板の詩を眺めていた、ような気がする。

 

『うつむく青年』の一連目はこうだ。

 

  うつむいて
  うつむくことで
  君は私に問いかける
  私が何に命を賭けているかを
  よれよれのレインコートと
  ポケットからはみ出したカレーパンと
  まっすぐな矢のような魂と
  それしか持ってない者の烈しさで
  それしか持とうとしない者の気軽さで

 

「ポケットからはみ出したカレーパンと」の行にさしかかり、わたしの斜め前のほうで、すっと手が伸びる。そうして、指された彼女が発言した冒頭の言葉、

「なぜ『あんパン』ではなかったんでしょうか」

に、わたしはびっくりして、そうして、なんだかとても感動したのだった。

「『気になった表現』がそれでいいのか」「そんなこと云っちゃってもいいのか」、と。

 

そのときの彼女は、ちょっと変わったことを云ってやろうとかいったふうでもなく、とても自然に見え、「なんだか急に気になったから云ってみました」というように、わたしに感じさせた。

「『あんぱん』、おいしいんだけどなあ」「わたしだったら、『あんぱん』なんだけどなあ」。そんな、屈託のない、かんじ。

 

彼女の発言を受け、先生は「たしかにねえ」と、考え込む。

そうしてしばらくのあいだ、なぜポケットからはみ出したものが「カレーパン」であり「あんぱん」ではなかったのか、を考えることが授業となった。

 

なぜだろう。

ただただ、「カレーパン好きな青年」だったんじゃないか、とか。甘いものは、この「青年」にはそぐわない感じがする、とか。なんとなく、丸い形のパンじゃないほうがいいようにおもう、とか。

授業はすこしだけ、活気づく。でももちろん、これという答えが出るわけではなく、「カレーパン」は「あんぱん」よりも断然、この詩の中にストンとハマっているような気がする、ということを云う子がおり、確かになあという者ありで、うやむやなるのだった。

 

そうして、次の行に移ってゆく。

けれど、わたしはその授業中、彼女の発言から離れられなかったのだった。

なぜ、それが、そこにあるのか。なぜ、それは、それであるのか。そう考えてみることは、物事を捉えるための、基本的な方法のひとつであるような気がする。たぶん。

けれど、そのときのわたしには、なかったのだ。「カレーパン」にひっかかり、「あんぱん」ではダメなのかと想像するような、考えは。それを授業中に云っても大丈夫とおもえるような、感覚は。

 

中学のときの授業は、なんだかぴりぴりしていた。

周囲もじぶんも「思春期」というものに突入したせいだろうか。あるいはただじぶんの変化により、そう感じるようになった可能性もないとは云い切れないのだけれど、本来は評価など必要なくただあればよいだろう「差異」というものが、「みんな」の中の「誰かひとり」からはっきりと立ち現れるたび、きまって負の方向に捉えられ、ひそひそと語られる。

そんな教室の雰囲気の中で、わたしは「あまり外れたことを云うとたいへんだ」「そつのない行動をしなければ」と、きゅっと固くなっていたのだった。

 

けれど、どうだろう。

彼女の言葉に、先生は好意的だった。同級生もだれひとり、笑ったりけちをつけたりするようなそぶりはしなかった。

「そうか、いいんだなあ」、嬉しい。「彼女は、素敵だなあ」、嬉しくなる。わたしは「高校生になるってすごい」とおもった。これが「成長」というものなんじゃないか。

 

高校の三年間で、ほかの同級生たちの言動からも「そうか、いいんだなあ」「素敵だなあ」とおもえる瞬間をたくさん得て、わたしは、周りから外れたりそつのないようにしなければ、などと恐れなくてすむようになること。つまり、「のびやか」にいられるってことが、大人になるってことなんじゃないか。そうおもうようになり、そのおもいは大筋でいまも変わらない。

 

「あんぱん」の子とはとくに親しくなることはなかったのだけれど、二年生に進級しクラスが別々になってからも、すれ違うとお互い軽い挨拶をするような淡い交流はつづいた。

すれ違うその子が元気そうだと、それだけで、きっとわたしは嬉しかったのだ。そうして、そのように嬉しそうなわたしを見て、おそらくその子も悪い気はしなかったのだろう、とおもう。

 

わたしはいまでもときどき、パン屋さんに入ってなにを買おうかたくさんのパンを眺めているときなんかに、ふと『うつむく青年』がポケットに入れられるパンはないだろうか、と探している。のだが、カレーパン以上にしっくりするものは、なかなかどうして、見つけられない。

とはいえ、あの子の青年のポケットに「あんぱん」があったみたいに、わたしも「わたしの青年」をつくれないものだろうか。などと考えもして、するといまのわたしが途中経過として青年のポケットに希望するもの、それは「おむすび」なのだった。

パンじゃなくって、ごはんだろう! 様々なパンを当てはめては敗北し、わたしはパンに決別したのだ。

 

わたしは「わたしの青年」には、無造作に二つ三つのおむすびを突っ込んで、レインコートのポケットをころころのぱんぱんにしていてほしい、とおもう。

お米を食べたら、力が出るかもしらんよ。うつむかなくたって、伝えられるようになるかもしれんよ。前を向いて、好き勝手にあっちこっち歩き、お供え物のおむすびを見つけたら、迷うことなくそれも食べちゃえ。

って、それはもはや『うつむく青年』ではない。それは「山下清」だ。レインコ-トを着た「裸の大将」だ。いや、「レインコートの大将」である。とても、胡散臭い。

  詩集 うつむく青年