うーん……。

 

 

本を読みながら食パンを食べていたところ、「コツコツ」とドアをたたく音がする。

困ったなあ、とわたしはおもう。パンが口いっぱいに入っているし、本だって閉じるにはキリが悪い。困ったなあ。

 

少し前に威勢よくドアを叩き、郵便屋さんは来た。お昼にはもうほかにだれも来る予定がないので、その遠慮がちなたたき方から、お隣さんだと判断する。

なにか「おすそわけ」しに来てくれたのかもしれない。そんな期待をし、口をもごもごさせながらドアを開けてみると、そこには見慣れぬ小柄なおばさんがいた。ちぇっ。

 

わたしは一瞬考えたのち、「わわ(ああ)」と云う。

見慣れぬ気がしたが、見たことがあるおばさんなのだ。やたらニコニコしているおばさんだ。「わわ(ああ)」と云いながら記憶を辿り、「(もしかしてっ)」とおばさんの後ろを伺うと、お姉さんがひょろり立っている。お付きのものを従えるおばさんだ。二人で一組のおばさんなのだ。といえば、宗教の勧誘である。

 

わたしは「ああ、しまった!」と、おもった。

せっかく楽しく本を読み、楽しく食パンを食べていたのに、と。

これからの展開が不毛なものになるのではないか、という経験則により想像される未来への恐れが、過ぎ去りし時を輝かしく見せるのだ。いまなら本を読むことも、食パンを食べることも、三割増しですてき!

 

しかしもちろん、おばさんはわたしの心中なんておかまいなしだ。

「あら、お食事中?」

悪びれずに云う。

「へへ(ええ)」

「お昼かしら……ああ、遅い朝ごはんかしら?」

ぼさぼさのわたしの姿を上から下まで眺め、云いなおすおばさん。するどいね。そうです、遅い朝ごはんです。

でもおばさんは、わたしのごはんのことになんか構っていられない。

「それでね、いまの世の中をどうおもいます?」

「どう……」

やっと口の中のパンを飲み込んだものの、突然の質問に戸惑っていると、

「では、いいとおもいます?」

畳みかけるように聞くのだった。

「うーん……」

わたしはうなった。「いいとおもうか」考えたからではない。わたしにあるのはただ、本とパンを中断しドアを開けたところ、なぜそんな一言では言い表せないような個人的な考えをさくさくと聞かれなければならないのか、さらには答えなければならない状況になっているのか、という戸惑いなのだ。

 

「わたしはね、よい世の中ではないとおもうんです。たいへんな世の中ですよ」

おばさんが云うので、わたしは「ふむふむ(うん、いいよ。おばさんの意見を聞くのは。おばさんは話したいのだから)」と聞くモードになったのだが、すぐに「それでね」と、パンフレットを目の前に差し出された。

あ、それ、前回にも、もらったものだ。が、ろくに読まずに捨てちゃったのだ。だからわたしはちょっとだけ、宿題をしてこなかった小学生の気分です。

 

「この中であなたの一番興味のあることはなにかしら?」

そのパンフレットの裏面には、「なぜ生きているのですか?」「争いはなくなりますか?」「幸せになるためにはどうしたらいいですか?」などという大問題が羅列してあり、そこから知りたいものを選ぶと、いまここでおばさんが、というかおばさんの神様が、答えてくれるらしい。

 

すごい。それはとてもすごいことだとおもう。だって、「あなたの疑問にお答えします」などと路上で出店しているお兄さんに聞いたら、五百円か千円払わなきゃいけないところ、おばさんはわざわざやって来て、タダで答えてくれると云うのだから。

とはいえ、別にいまわたし、教えてほしいわけじゃないし。

 

そこで「教えてほしいものはない」と云うと、「そんなはずはない!」と、おばさんは前のめりだ。「神様は目に見えるものではないから、証明されなければ信じられないわよね。でも、だから聞いてほしいの」と、理解を示すふうを装いつつ、信じてないから教えてほしくならないのだ、って感じに云った。

信じる信じない以前の問題なのになあ……。めんどうくさくなって、つい、

「すみません、いま、ちょっと忙しいんです」

と、断った。そうして、じぶんが「忙しい」などと安易で嘘っぱちな言葉を使ってしまったことに、狼狽する。

「じゃ、また日を改めるわね」

「いままで、ほかの方も何度もいらしているんです。でも聞きたい気がしないんです。すみませんが、もう結構なんです!」

何度も嘘っぱちを云いたくない。慌てたため、じぶんでもびっくりするくらい強い口調で重ねて断ってしまった。

 

それでおばさんとお付きのものは「ご近所だからまたね」と帰ってくれたものの、わたしは食パンをもごもごと咀嚼しながらくよくよとした。本をめくりながらくよくよくよくよ、した。

最後の言葉は、嘘っぱちじゃない。ぜんぶ本当の気持ちだ。とはいえ、言葉に棘があり過ぎたんじゃないか。「不愉快だ」という感情を出し過ぎたんじゃないか。

 

すぐに答えられないことや、答えたくないことを無理に云わされたくない。

だったら、ちゃんとそう主張をして、でも礼儀を欠かさずにやんわりとお断りする。そうして円満に帰っていただく方法はないものなのだろうか。

おばさんのペースに「なにかがおかしい」とおもうもののまごまごしてしまうのは、無力感でいっぱいになり、いやなのだ。で、そのため強い口調になってしまうのも、おばさんに悪いことした気がして、いやだ。

だからわたしは、じぶんができるだけいやな気持ちにならなくて済むように、もっとスマートかつスムーズに対応できないものか、と考えた。

 

だけれどもだ。もしわたしがスマートかつスムーズな対応ができたとして、あのおばさんに失礼がないかは判らない。

こちらがへどもどしていやな気分をあからさまに見せたほうが、「まだなにも判っていない哀れな子」として、おばさんは心穏やかでいられるのかもしれないし。

 

ああ、おばさんともっと違う話ができればなあ。

近所のスーパーの限定100パックの特売玉子が、開店1時間後に行って売り切れになっていたときの口惜しさについて、とか。

そうしたら意外と楽しかったり、好きになれたりするのかもしれないのに。そうもどかしくおもったのだが、「でもおばさんはわたしと別の話をすることなんか望んでいないんだ。宗教の勧誘をしたいだけなんだろうから」と気がついて、自分の片思いに、しょんぼりしてしまう。

 

わたしは、考えれば考えるほど、なんだかとても後味が悪かった。

 

とはいえ、あのおばさんが悪いわけじゃないんだ。

後味が悪いと、そう感じさせた状況をつくったひとを悪くおもってしまいがちだ。でも違うんだ。わたしはじぶんの感情と態度にくよくよとしているのだから。

それは「わたしの問題なのだ」と、わたしはじぶんに云い聞かせる。そこを間違えないようにしよう。

 

ぼんやりとそんなことを考え、パンを食べ食べそのとき読んでいた本は、徳永進さんの『死ぬのはこわい?』で、それはホスピスケアの診療所の所長である「ぼく(徳永さん)」が「夢二くん」という中学二年生の男の子に診療所を案内しながら、生きること、死ぬことについて対話をするお話だった。徳永さんの書く平明で優しい言葉が、どんどんと入って来て、わたしはちょっと泣いてしまった。

 

読み終えて、もしもおばさんに「死ぬのはこわい?」と聞いていたら、おばさんはなんて答えてくれたろうか、とおもう。

それも、おばさんの神様が答えたのだろうか。それとも「おばさんの神様」を信じるおばさんが、答えてくれただろうか。

 

わたしは、どうかなあ……。怖いかなあ。怖いよ、なあ。

「うーん……」と考え中です。

 

死ぬのは、こわい? (よりみちパン!セ)