せめて、鏡を見てからゆこう。
暑くなってくると、いつにもましてやる気がなくなる。
一週間ぐらい、家でごろごろしたい。そのあと、どこか遠くへ行きたい。で、一ヶ月間くらい、まったく働かないでいたい。そんなことばかり、おもう。
そんな調子だからか、本屋さんで『新 13歳からのハローワーク』が目につき、ついつい立ち止まってしまった。
べつに「13歳からやり直したい」なんて、かったるいことは、おもわないんだけど。「いろんな職業があって、たくさんのひとが働いているんだなあ」ってかんじられたら、わたしだって、少しはやる気になるんじゃないか。
なんておもったのだが、いま働きたくないわたしの気もちは、わたしの気もちだ。ほかのひとがいくらせっせと働いていたとしても、あんまり変わらないみたい。
だから、「ひとにどうにかしてもらおうとしちゃいけないな」なんて反省をしながら、ぺらぺらと頁をめくった。と、急におもいだしたのだ。
それは、一年くらい前。
駅ビルにファンデーションを買いに行ったときのこと。
わたしはあまり熱心に化粧をしないので、一つのファンデーションを使いきるまで、だいたい一年かかる。化粧品売り場へゆくことは、年に一度の、一大イベントなのだ。
だから毎年、残り僅かのファンデーションを塗り、ほかにもできるうる限りの化粧をし、一番まともに見えるとおもう服を着て、意を決っしてゆく。着飾ったひとが多く、臆しちゃう休日は避け、空いている平日にゆくのだ。
けれど去年は、夜勤明けで朦朧としており、とても投げやりな気分だった。
ちょうど駅ビルの前を通ったので、近所のコンビニへ行くくらいの格好で、ふらふら買いに行ったのだ。もちろん、すっぴんで。
「肌、きれいですねえ」
「なんにもしないで、大丈夫だなんて、うらやましい」
いやみにしか聞こえない、店員のお姉さんのマニュアル感たっぷりのお世辞に耐え、見つくろわれたファンデーションを、しょんぼりとカウンターに座って、わたしは塗られる。
すると、わたしの肌はガサガサで、お姉さんの想像したようには、いかなかったらしい。このファンデーションじゃダメだから、もっと「カバー力の強いやつ」を塗ってみると云う。右と左に塗り分けるから、「どっちがいいか判断しろ」と云う。
で、「ほら、あとに塗ったほうがいいでしょう」って、手鏡を渡された。
だから見る。と、なんということだ。わたしの鼻からは、鼻くそが「ちょこっ」と顔を出しているではないか。どっちのファンデーションかって問題じゃない。まずは、鼻くそだろう。鼻くそが問題だろう。
わたしはいま、上を向いたら、完全に鼻くそをつけたひと。でも下を向いたら、普通のひと。正面だと、完全には出ていない、微妙なライン。「ちょこっ」と出ているひとだ。
下ばかり向いてもいられないので、わたしは慌てて、お姉さんが手鏡を置く隙に、鼻をこすった。すると、鼻くそはわずかに引っ込んだようだが、鼻の中でぷらぷらとし始めた。息を吸うたび、鼻の中で揺れている。
ああ、つまんで取ればよかった。その瞬間を見られたら気まずいと、こすっちゃったのが、失敗だった。
「(このままゆくと、落下は時間の問題だ!)」
焦るわたしと対照的に、お姉さんは顔色ひとつ変えず、仕上げにと、カバー力のあるほうのファンデーションを顔全体に塗ってゆく。ああ、その衝撃で落ちちゃうよ。頼むから鼻の周りは塗らないで。
と、そのとき、
「お客様、お鼻が!」
お姉さんが、ティッシュでさっと、落ちかけたらしいわたしの鼻くそを、ふき取ったのだ。それはもう、神業のような早さで。
そして、なにごともなかったかのように、またファンデーションを塗るのである。
このひとは、意外とすごい。マニュアル通りにお世辞を云っているだけじゃない。咄嗟の事態にも、けっして動揺しない、仕事人だ。
と、尊敬をすると同時に、お姉さんも、べつにわたしの鼻くそをふき取りたくて、美容部員をやっているんじゃないだろう。でも、仕事をしていると、いろいろなことがあるのだ。ひとの鼻くそだって、涼しい顔して取らなきゃいけない日もあるよ。ああ、これが働くってことなんだな。って、わたしはしみじみと、かんじたのだった。
まあ、もちろんこのときにも、わたしにやる気がおきたわけじゃないんだけど。
でも、お姉さんを見習って、ひとにはやさしくしよう。とくに、ダメなひとに。いまのじぶんよりダメなひとが、どこかにいるんだったら……。なんてことは、おもえたよ。
って、なんだか話がずれている気がするんだけど。
それよりもわたしにとって問題は、そろそろまた、ファンデーションを買いにゆく時期だってこと。

