石は友達

 

 

 年始から、珍しく「わたわた」と過ごしていたのだ。

 なんて云っても、わたしの主張する「わたわた」なんて、大したことがない。

 とは思うのだけれど、思いと裏腹に本人は「わたわた」しているし、はたから見ても大そう「わたわた」して見えたに違いない。

 

 巷には、ばりばりと働いているひとがいる。

 類は友を呼ぶのか、自分の周りには多くない気もするけれど、とはいえ、あのひとやこのひとやそのひとや、そうやって知人の顔がすぐ何人も浮かぶくらいには、みんなみんな、ばりばりと働いているのだ。

 まあ、ばりばりとじゃなくても、ほとんどのひとがわたしより、おそらくしゃんと活動している。

 

 一日が24時間というのは変わらないはずなのに、処理できる物事の量が圧倒的に違うみたいだ。わたしが「わたわた」しちゃう状況でも、ほかのひとは「わたわた」なんかしない。さらにあれもこれもそれも、こなせてしまうんだ。

 一体全体、なぜなのだろうか。

 

 だからわたしは、自分が「わたわたしているなあ」って思うとき、ほかのひとを想像しては、

「どうしてなのだ。同じ人間なのに……」

 いつも不思議に思ってきた。

 

 でも、2012年。はたと気づいて、考えを改めることにしたのだ。

 もう「同じ人間なのに……」なんて思わないぞ!

 

 わたしには向上心というものがない。「同じ人間」をうらやんだり自分もがんばろうって考えることはせず、「なぜだろう、へんだなあ」って思っているだけだからだ。

 って理由もあるが、それだけじゃない。

 

「同じ人間」なんて云うけれど「同じ」ってなんだ「同じ」って、と、気になったのだ。とはいえ「同じ」って思うのはやめられない。だって、ひとりじゃ寂しいじゃないか。「どうやら自分がダメらしいって気づいたときこそ、「同じ」って云いたいじゃないか。

 でもなんで「同じ『人間』」なのか。いつもいつも「人間」でなくてもいいんじゃないかって思ったのだ。人間以外と自分を、わたしは、なぜ「同じ」と考えない。

 なんでも「人間」でくくってしまうってのは、ちょっと横暴すぎるよ。

 

 わたしの物事を処理する能力は、もしかしたら人間よりも、いま目の前に置いてある「鉛筆立て」と「同じ」と云うべきものかもしれない。

 冬を感じる力は「冷蔵庫」と同じだとか。

 お昼寝を愛する心は「猫」と同じだとか。

 

 けれどそこで、勝負をしだしたらやっかいだ。わたしがパソコンのキーボードを両手で打てると自慢したら、鉛筆立ては「鉛筆をたくさん立てられるのは自分だ」って云うだろう。そうやって無用な戦いをするのは、いやなのである。

 自分が「まだまし」と思うためではなく、ちょっと先を行かれているけど「同じ」、あるいは共感が根底にあるような「同じ」であればいいのだけれど。

 そうもしもできたら、もっと多くのものに、愛情が持てるんじゃないか。

 

 わたしには新しい年になると、つげ義春さんの漫画を読む習性がある。とくに、『無能の人』なんかを。

 新年で前向きになりがちな空気に対抗して、どうがんばっても前向きな気分にはならない物語を読んで、心を落ち着かせたいっていじましい気持ち。主人公みたいに河原で拾った石を売って(とはいえ売れないんだけど)暮らしてみたいって憧れもあるからか。

 けれど今回読み返したところ、石の存在感や、主人公がなんだかんだ云いながら石に惹かれていそうなところ、人間よりも石のほうに(「同じ」は云い過ぎかもしれないにしても)どこかしら共感めいたものを持っていそうなところに、ぐっと来たのだった。

 

「けんけんぱ」「石蹴り」「陣取り」「ひょうたん鬼」―― 。置いたり、蹴ったり、指ではじいたり、宝ものとして盗り合ったり。そうやって小学生くらいまで、わたしも石と親しんできた。

 ほかにも、学校からの帰り道。一つの石を友人と蹴りあって歩くとか。友人と別れてひとりになっても、せっせと蹴りつづけるとか。そうして家まで着いてしまい、そのへんに捨てておくのが忍びなくなり、拾って机の上に飾ってしまうとか……。

 

 そんな「石と友達」状態は、とんと昔。

 いまでも時々、一つの石をうっかり数回つづけて蹴ってしまったがため、どこまで蹴りつづければいいか、判らなくなることはある。けれど決して、家まで蹴って帰ったりはしない。

 それがちょっと寂しい。

 

「わたわた」して余裕がなかった反動からか。いつもどおりだらだらとし始めれば、すっかり忘れてしまうのかもしれないんだけど、わたしはいま、「石ともう一度、友達になりたい」「やり直したい」なんて、本気で思っているんである。どうしたことか。

無能の人・日の戯れ (新潮文庫)