『ラヴクラフト全集』H.P.ラヴクラウト著

 

 神話ってのは、神話なんだから神秘的でないといけない。我々下々の者はそれを聞いて神への畏怖だとか敬意だとかを喚起させるとともに、やっぱり人間の及ばない叡智とか脅威ってのは存在するんだな、ちっぽけな存在の我々はもっと謙虚にならないと駄目なんだ! つって今日も時給800円のバイトに満足する。そのためには創作者の影がちらついてはいけない。

 そう思っていた俺の観念を見事どんでんちゃぶ台月面宙返しを決めてくれた神話がある。独特のグロかっこいい世界観で、俺の中二病ギアを三速から六速まで一気に加速させた【創作】神話『クトゥルフ神話』である。

 この神話の始まりは、たった数冊のホラー短編集だった。だがそれは人々を魅了し、多くの作家たちがその骨子に独自の味付けを施した肉を、皮を貼り付けていき、やがてそれは神話となったのだ。その始まり、グラウンドゼロこそが『ラヴクラフト全集』である。

 一人の人間が創作を超えた神話のキッカケを作る。それはいわば神代の創造であって、冒涜とか暴挙とかそういうこと以前に「不可能」なはず。いくらそれが物語としてよく出来ていたとしても、大声で「俺神話かんがえたー! ねー! お母さ、じゃなくてせんせー! 神話かんがえたよー!」っつってる時点で通信簿に「独創的なのはよいことですがキンタマは出さないようにしましょう」のコメントをつけられジエンドだ。

 では、ラヴクラフト全集はいかにして神話にまで昇華したか?
方法は実に単純。創作者、つまりラヴクラフト自身が神話の「犠牲者」となったのだ。

 例えるならラヴクラフト全集は雪原にポツンと置かれた小さな雪球、そしてラヴクラフトはその雪球を転がす一人の青年である。

 人々は球を転がす青年を見て、なんだアイツは雪球なんか転がして、他に娯楽を知らんのかなどと嘲笑するがよくよく見ると青年の様子がおかしい。唇は紫、顔は青ざめ、何事かぶつぶつ呟いている。心配になった聴衆の一人が声をかけると、青年は飛び出さんばかりに眼を見開いて男に向き直り、

「助けてくれ! 俺の意思とは無関係に、手が、足が、勝手に雪球を転がしてるんだ!」

 青年のその余りの形相に気圧された男は、なんとか雪球から彼を放そうとするも頑として離れない。

 駄目だ、この雪球は本当に呪われている! 誰か助けを呼んでくれ! 雪球の周りに人がどんどん集まっていく。中にはそんなわけないと青年に並んで雪球を転がし始める者もいたが、どうしたことか、その者も取り付かれたように雪球から離れないではないか! 呪われた雪球の噂が噂を呼び、そして肥大化した噂が人を呼ぶ。やがて青年は息を引き取ったが、雪球を転がし続けるものは後を絶たず、とうとうただの雪の塊が『邪神の化身』などと呼ばれるようになり、神話が誕生した――。

 ラヴクラフト全集にて書かれるエピソード、その登場人物は著者を含め皆ただただ得体の知れない悪意に怯え、または発狂しながらその命を散らしていく。神、という認識外に巨大で重大な、まさしく「名状しがたい」存在を前にした阿鼻叫喚が巧みに表現されている。

 もちろんラヴクラフト全集だけでは「神話」まで至らない。本書にインスパイアされた後世のフォロワーたちが続々と犠牲者の列に加わったお陰で神話大系を形成するまでに至ったのだが、これが神話の、その最初の一葉だと思って読むとまた違った味わいがあるのではないだろうか。

 余談だが、神話を代表する邪神クトゥルフの名前が、作品によって「クトゥルフ」「クルウルウ」「ク・リトル・リトル」など表記が安定しない理由は、本来人間には発音不可能な音を無理やり表記しているためである、という設定がかっこよすぎる。子供が生まれたらそういう名前をつけたい。

 

 

 

ラヴクラフト全集 (2) (創元推理文庫 (523‐2))  

 管理人注

 全集は全七巻あるので、クトゥルフ神話でもっとも有名な短編『クトゥルフの呼び声』が収録されている二巻のみリンクをはっています。