『素人庖丁記・海賊の宴会』嵐山光三郎著
こないだ現代日本では非常に珍しい和服美人を見かけたので、観察してみた。
結構長い間、それこそイギリスならファウルとられてもおかしくないぐらい眺めてると、ふと、あることに気づいた。「うなじ」というものをセクシャルに捉える観念ってのは結局和服の構造から生まれたものではないか、と。
ケツやおっぱいがエロい、ってのはまあ万国共通の観念だろう。膝の裏や腋を嗅ぎたい! ってのはお前の残念な人生がもたらしたフェティッシュだろう。しかし「うなじがセクシー」っていう観念は日本人特有のものではなかろうか。あんまり外人が「うちのワイフはうなじビッチでさ」なんて言ってるのは聞いたことがないし「舐めたくなる 外国人のうなじ .zip」で検索してもまるで見つからなかった。
ではなぜ日本人だけが「うなじ」というものにエロスを感じる観念を獲得し得たか? その答えは和服の構造にこそある。和服は周知の通り足も胸も露出しない。それどころかそのシルエットすらも曖昧なものにしてしまう。一説には「スタイルの悪い日本人の体形を隠すため」にそうであるらしいのだけれども、この和服のお陰で巨乳も貧乳も美脚も短足も皆似たようなシルエットになってしまうのである。
そこで困ったのは日本人の性欲。胸もおっぱいも見えないとなれば、何に対して俺たちはリビドーを感じればいいのか? 性欲は考え、そしてあらん限りの視力を尽くして和服の女を観察した結果、性欲のはけ口を見つける。それが唯一露出している肌の部分「顔」と「うなじ」である。
もしも和服が、乳首のところだけ切り抜かれてる、とかいう構造だったなら「うなじがセクシー」という観念は生まれず「乳首が写楽」で終わっていたであろう。「うなじ」こそは抑圧された環境下だからこそ生まれた文化だ。目"尻"という言葉にも顔面から何とかしてエロスを感じとろうという意志が見受けられる。おそらく「うなじ」が無ければ「目尻」の他に「目っぱい」という言葉が生まれていたに違いない。
いかなる状況でも人間は愉しむことが出来る。そう、人間は人生を愉しむために生まれてきたのだ!
――と、上述したような事をグルメに置き換えて淡々と書き綴っているのが今著「素人庖丁記・海賊の宴会」だ。要するに古今東西に出会った「旨いもん」について書かれているのだけれども、その着眼点やら発想やらが尋常なるグルメ本の域を遥かに超えてズレている。いちご狩りに行ったはずなのに英検二級を取って帰ってきた、ぐらいズレている。以下に本文を少し引用する。
――ぼくはレタスが嫌いだった。レタスは、英会話がうまいキャベツという感じがある。
冒頭十行にも満たないうちにこんなことを言い出す。その後はただひたすら「この帰国子女の令嬢みたいなレタスを、いかに下品に、しかしお嬢様の品格を残しつつ食べるか」ということに筆を尽している。わからない。まるでわからない。
しかし、読んでいるうちに身体が妙な高揚感に包まれてゆくのだ。質の高い学術書を読んだような、あるいは斬新な着眼点の論文を目にしたような、エポックメイキングな感覚と「ああ、人間は人生を愉しむために生まれたきたのだ!」という希望にも似た感情が血管を駆け巡り、その螺旋が頭頂で天国のように廻り「空腹という概念をどう料理すれば、一番美味しくなるか」という文章を読んだ辺りで俺は射精した。
オススメ!
