『阿修羅ガール』舞城王太郎著

 

 

 もしも最愛の人に「あなたの鼻がレンチだったら、それで自転車のタイヤを外すところが見てみたいわ」なんて言われたらどうするか。

 

 レンチにする? レンチにしちゃうかもしれない。少なくとも「レンチだったらどうだろう?」と考えたりはするだろう。鏡の前で鼻の前にレンチをぶら下げてみたりして「うーん。メガネをかければ無くもないかな?」なんて思ったりもする。あるいは、愛に一途な人なら鼻をレンチにすることなど何一つ厭わないのかもしれない。

 

 では、その女性と恋人関係でなくなったら、あなたの鼻レンチはどうなるのだろう。消える。そんなことはない。愛の証だったかそうでないかは別としてそれは生涯残り続ける。

 さらに次に付き合った女性からは「あなたの耳がシャワーノズルだったら、もっと素敵よ」そしてその次に「鎖骨におはぎを乗せてみない?」かと思えば「嫌だわ、腋にレバーがある人じゃないなんて知らなかったの」「ケツをキャタピラにして」「乳首をUSBにしましょうよ」「目玉をアクオスにしちゃったかも!」

 

 そうして出来上がった貴方は見るも無惨な家電キメラに成り下がってしまうかもしれない。しかしそれは醜いのだろうか。あなたが大切にしたいと思った全ての女性に、その愛でもって報いた結果の鼻レンチではないか。耳シャワーではないか。鎖骨おはぎであり腋レバーであり、ケツピラの乳Bそして目クオスだろう。それは愛の結晶だ。あなたの献身の塊だ。それはきっと、全く美しい姿だ。

 

 しかし貴方のパーツは全て良い思い出にデコレートされるとは限らない。嫌な別れ方をしてしまったら、それがそのままパーツにも乗り移ってしまう。腋レバーを見るたび、引くたびに彼女との喧嘩を思い出してしまう。そしてレバーの切り替えに応じて左右の乳Bに接続された思い出動画が目玉のアクオスで再生され、それは貴方に辛さを、あるいは憤りを想起させるかもしれない。

 

 しかしそれでも俺は貴方を美しいと思う。関係を拒絶し、何も得ることなくまっさらな姿でへらへらとごまかしているよりも、誰かに真正面からぶつかって自分の姿を歪める方がいい。だってその失敗は勇気になる。その勇気は希望になる。その希望は成功になる。その成功は愛になるのだ。

 

 人と接することで自分の形を歪めて、愛の形へと近づけるのだ。それこそが人類の歩みだ。それこそが営みだ。そんな読後感に今俺は支配されているのだけれども、是非これを目にした諸兄はこんな戯言を間に受けたりしないでほしい。多分、次に読んだとき俺はまるで違うことを言っている。クソみてーな駄作と言っている可能性すらある。そしてその次には、文学史に残る名作だと興奮した文体で綴っていることだろう。

 

 本作に対するあらゆる評価を真に受けてはいけない。顔が一個しかない人類の言うことなんて、高が知れているのだ。

 

阿修羅ガール (新潮文庫)