『飢狼伝』夢枕獏著

 

 

「はいどーもー! 夢路ディープ・スロートでーす!」

「はいよろしくお願いしまーす! しかし八月ともなると毎日毎日ナツいでんなー」

「こらこらこらキミ。ナツいて何やねんな!」

「いや普通でんがな。アツはナツい、いうてな」

「なんでやねん! それをいうなら、夏は暑い、でっしゃろー!」・・・・・・。


 その一語一句が『人を笑わせる』という目的に向けて最適化された会話を『漫才』と呼ぶように、ある目的に沿って極限まで研磨された行動はしばしば芸術活動としての名を冠する。言うまでもなく芸術は素晴らしい。芸術によって人は感動し、芸術によっても人は研磨される。

 

 ではその素晴らしさを誰かに伝えたいとき、どうすれば最もよく伝わるだろう。やはり言葉を尽くしてその一挙手一投足を説明すべきだろうか?

 

「はいどーもー! 夢路ディープ・スロートでーす!」

 男の一人が声を張り上げた。夢路ディープ・スロート、人の名前としてはいささか違和感のある単語は、彼等のコンビに対して付けられたものである。

「はいよろしくおねがいしまーす!」もう一人の男も同じように声を張る。「しかし八月ともなると毎日毎日ナツいでんなー!」

 ナツい。その言葉の意味するところを、最初の男は図りかねた。長年寄り添ってきたはずの友人、いまさらわからないことなどないと思っていたのに。その疑問を口にすべきか、否か。その好奇心はともすれば友情を壊してしまうかもしれない。

「こらこらこらキミ」

 ああ、しかし好奇心とは何と有毒な観念であろう!

「ナツいて何やねんな!」

 その疑問の奔流を抑える事など、彼にはどだい無理だったのだ。「いや普通でんがな。アツはナツい、いうてな」

 冷ややかな目。そう言い放った男の眼光は人殺しのそれだった。この世の一切に興味を持たず、執着を置かない、鉄格子の中から世界を眺める囚人の顔つきだった。

 最初の男は思った。友人は今、想像もできない思考の混沌、その只中にいる。彼を救えるのは自分だけだ。自分の言葉だけだ。男は胸元で右手に力を込める。友人へとぶつける右手だ。やけに熱い。そう、熱いのだ。決してナツいのではない。この熱い掌、そして言葉で友人を混沌から救う――。

「なんでやねん! それをいうなら、夏は暑い、でっしゃろー!」・・・・・・。

 

 こうなると漫才というよりは、洗脳された仲間を救う勇者か何かだ。漫才本来のバカバカしさはどこかへと消えうせ、やり取りが別の方向へと一人歩きしてしまっている。これならばまだセリフの羅列の方がいくらか漫才の体裁を保っていたと言えよう。

 

 最適化されたやり取りを伝えるために言葉は必ずしも必要ではない。省いたはずの贅肉を、また新たに付け直す必要などないのだ。極限までシェイプアップされたやり取りならば、それをそのまま表記するだけで後は人間の持つ想像力が勝手に復元してくれる。それはもはや信頼といっていい。人類の持つ想像力に、無限に期待した文体・・・・・・夢枕獏の文章とはそういうものなのだ。氏はそれを、会話ではなく肉体のやり取りに適用した。

 コンマ以下の世界で繰り広げられる格闘を、肉と肉のぶつかり合いを、氏は自らの筆に我慢をさせてまで読者に信頼を寄せたのだ。そしてそれは成功した。読むものが蚊帳の外から眺める格闘ではない。行間から拳が、蹴りが飛んでくるのだ。君は動詞をガードし、形容詞をスウェーバックしたのち、句点と読点の一瞬の隙をついてカウンターを叩き込むだろう。それは臨場感、そう! マリオカートでカーブ曲がるとき、つい体を傾けてしまうような!

 

 読み終わる頃にはちょっと痩せててもおかしくないこの作品、格闘好きでもそうでない人にも是非体験してほしい。二の腕のぷるぷるが気になるオンナノコにお勧めの一冊だ。

 

新装 餓狼伝〈the Bound Volume 1〉 (FUTABA・NOVELS)